カメラが切り取ったのは、いつか誰かが忘れていった風景だった。

「もしかして心霊写真?」

 最初は好奇心たっぷりに俺の手元を覗き込んだくせに、見ず知らずの女が映った写真を目にするなり、琴美はひどく気味悪がった。

「わからないけど、たぶん怖いものじゃないよ」

 俺は安心させるために、連写した一連の写真を順番に見せていった。

 一枚目。薄手の白いワンピースを着た女が微笑みながら、素足の爪先を海に浸している。青々と輝く海と空のせいもあって、ここが雪国であることを忘れてしまいそうな一場面だ。

 二枚目。男が背後から女に駆け寄り、女にダウンコートを着せている。

 三枚目。二人が向かい合って話しているようだ。言い争っているようにも、じゃれあっているようにも見える。

 四枚目。女が先に浜辺から立ち去り、男が彼女の後ろを追いかけていくところだった。

 五枚目以降はただ美しい砂浜と海だけが写っている。

「一枚も私が写ってないんだけど」

「俺だって、可愛くはしゃぐ琴美を撮りたかったよ」

「あっちの方に歩いていったよね? まだ写るかな?」

 琴美は楽しそうに、白亜シラフラの断崖を指差す。彼女はすっかり写真の謎に夢中だ。俺はため息交じりに、目を輝かせる琴美にカメラを譲った。

 琴美とは付き合って一年半。お互い三十代も半ばに差し掛かり、結婚を意識していたが、今の関係に不満があるわけでもないので、それ以上踏み出すことができないでいた。

 そんな時、友人が北海道旅行で撮影した滝瀬海岸を見せてもらった。数百メートルに渡り続く断崖の眩しい白さ。非日常的な景色に惹かれ、俺はすぐさま旅行を計画した。

しかし二人で旅行に出かけるのも初めてのことではなく、何をするのも日常の延長線上。特別な空気が生まれることはなく、穏やかな時間が流れるばかり。

そこへやってきた小さな怪異。何かを期待せずにはいられなかった。

「何も写らない」

 何度も確かめ、そのたびに彼女はガックリと肩を落とした。

「写ってるだろ。綺麗な崖が」

「……そうだね」

 俺たちは妙な気まずさを抱えながら、昼食のために近くのレストランに向かうことにした。

「何だったんだろうね」

 料理が届くまでの間、写真を見ながら物語を二人で想像する。

「痴情のもつれかな?」

「雑誌かなんかの撮影だろ」

 残念ながら、解釈は不一致。

「えー? この女の人の表情は生々しさがあると思うんだけどなー」

 琴美は俺の意見に不満があるらしく、写真を拡大して観察し始めた。あまりにも真剣な顔をしている琴美は――やはり可愛い。その表情を見て、そもそも俺が見るべきものは景色ではなかった、と痛感せずにはいられなかった。

「ねぇ、見て!」

 落ち込む俺の肩を揺すり、琴美が嬉しそうに見せてきたのは、最後に彼女が撮った何も写っていないと思った写真。

「崖だな」

「そうじゃなくて、見てほしいのはここ!」

「ん?」

 よく見ると、白亜の崖の端に二人の影のようなものが写り込んでいた。

「これは……絶対してるよ」

 琴美はニシャリと企むような笑みを浮かべる。

「何を?」

「何ってそんなの……」

 キスに決まってるじゃん、とぷいっと顔を背ける琴美の白い耳は、うっすらと朱色に染まっていた。

「お待たせいたしました。海鮮丼のお客様は?」

「あ、私です」

 写真の話はそこで切り上げ、早々に丼に手を付ける。

 海の幸は美味しい。けれどどうしても味わうことに集中しきれず、チラリと琴美の様子を伺うと、ちょうど彼女も顔を上げたところだったらしく、視線がかち合った。

「海。後でもう一度、見に行かない?」

「いいけど、なんで」

「……ちゃんと私も撮ってほしいから」

 何故あんな写真が撮れたのか、あの写真は一体どんな場面を切り取ったものなのか、真実は何もわからない。

 けれど、目の前の琴美が可愛いのは、間違いなくあの写真のお陰だ。

「ん。了解」

 俺は返事をするなり、平目の天ぷらに噛り付く。白身のほのかな甘みと共に、何とも言えない充足感が全身に広がっていった。