カチッ、チャカッ、と、まるで怯えるように食器が鳴っている。父が空になったグラスを置いて、母が立ち上がる。冷蔵庫から瓶ビールを取り出して、とんと、父の前に置いた。
 時計の音がよく聞こえる。19時57分、あるいは58分。その間ぐらいで年月みたいにゆっくり動く針を見ながら、もう少しで、流行っているらしいドラマが始まることに気付いた。1回ぐらいは見てみたいのだけど、リビングに置かれた真っ黒なテレビは沈黙のまま鎮座している。
「よそ見」
 父はサラダをフォークでつついて、それから紙ナプキンで口を拭う。
「食事中、よそ見」
「はい」と私は頷く。
 そしてまた、カチッ、チャッカッ、と、まるで怯えるように食器だけが音を立て続けた。

 煙草が煙たい車内の、少し古いカーステレオで、北の国からが流れる。
「あー、あー、川の流れのようにーー!」
 ちょうど1音外れた調子で歌う彼だが、その続きを知らないのか、そこからはフンフンと鼻でうたった。
「さっきから、ずっとそれだよ」と私が言うと、彼は「だって北海道じゃん」とハンドルを人差し指で叩いた。
「動物園、ラーメン、ドライブ。あとはカニと温泉と……なにがしたい?」
「わたしは……。その、カニなんだけど……やっぱり……」
追いかけたところで
「おっ、あれじゃん!」
今日の宿に着いたらしかった。
「で、カニがなんだって?」
「……ううん、なんでも」
「そっか」と彼は何も無かったようにタバコの火を灰皿に押し付けた。

 チェックインを済ませると、すぐに予約していた夕食の時間になっていた。大広間のような場所には、バイキングのシステムで複数の種類のカニが散乱している。
「カニ、カニ、カニー」と彼は席に荷物だけ置いて、「海の幸」と書かれたコーナーへと歩いていく。

 わたしは、赤いカーペットに視線を落としながら、その少し後ろを歩く。大広間はわたしたち以外の宿泊客がたくさんいるのに、しかし異様に静かだった。なにも、不思議なことはない。みんな、カニに熱中しているのだ。
「君も食べるでしょ?」と彼がわたしの皿にまでカニを押し付ける。
「うん……」
「どうしたの?」
「ううん」とわたしは首を横に振る。席に戻り、2人して慣れない手つきで、カニの甲羅を剥き始める。

 カニなんて、食べるときに無言になるものの代表格だ。

 カチッ、チャッカッ。

 そんな音、どこからもしていないはずなのに。怯えるような食器の音が、どこからか聞こえてきてしまう。
 家を出るまで、わたしにとって夕食とは、そういうものだった。食べ物を口に入れる以外では口を開かず、テレビは真っ暗で、父だけが、無言で酒を飲む。そういう儀式みたいな、脅迫的な食事……。

「うんめえええ!」

「……え」

「うめえって、カニ。あれ、剥けないの? 剥いてあげようか?」

「ううん、大丈夫」

「そっか、そっか」

 彼はなにも気にした様子もなく、楽しそうに、声を出しながら、カニを頬張っている。

「ねえ、子供の時さ、どんな食卓だった?」と私は言う。

「……んえ? どんなって? 貧乏だったよ。豆腐ご飯みたいな時だってあったんだぜ。みんなで笑いながら食ってたよ」

 みんなで笑いながら食ってたよ。

「そっか」

「……なんで笑ってるの?」

「ううん。なんでも」と、わたしはようやくカニに手をつけ始める。

「ねえ、もし子供ができたら、そういうのにしようね」

「……んん? そうだな!」と彼はよく分かっていない様子でカニを頬張り続けた。