「さっむ!」

「山だからねえ」

 山は寒いものだよと付け足して、あーちゃんは笑った。

 私とあーちゃんは幼馴染だ。あーちゃんのフルネームは阿藤絵里。小学校のクラスで”えりちゃん”が多かったことから、あーちゃんはあーちゃんになった。でも、そんなあーちゃんは来週、阿藤さんじゃなくてスズキさんになる。

「あーちゃん寒くないの?」

「厚着してきたからねえ」

「私ももっと厚いやつ来てくればよかった」

 函館山の山頂展望台は日が暮れるよりも早く混み始める。そのため、私とあーちゃんは日没よりもずっと早くロープウェイに乗って、二人で座れる場所に腰掛けていた。観光客がやって来ては景色の写真を撮り、きれいだねとはしゃぐ様子を、あーちゃんと二人で眺める間に2時間は経っていた。

「なんだっけ。夜景が綺麗に見える時間の名前」

「トワイライトタイムって言うらしいよ」

「小洒落た名前ですこと」

「なあに、そのおばあちゃんみたいな言い方~」

 薄いピンク色に染まりはじめた街並みは、私とあーちゃんからすれば、毎日の景色のひとつ。でもそんな風景を見るために函館を訪れる人もいるというのだから、私の地元は美しい景観と胸を張れるようなものなんだろう。

 二人でいつものようにファミレスでポテトを食べて喋っていたら、あーちゃんが神妙な顔で私結婚するんだと言ったのは先月のこと。また、函館を離れて東京に行くそうだ。あーちゃんの彼氏が東京本社へ栄転する話はもっと前に聞いていたので、予想していた未来がそのまま現実に変わっただけではあるが、私はただただ寂しいと思った。

「人、増えてきたねえ」

 あーちゃんがゆっくり話す。小学校のころから変わらない、のんびりとした話し方。あーちゃんは昔から優しい。なのに、あーちゃんという名前だけがなくなってしまう。

 観光パンフレットに載っているような場所は、小学校や中学校の総合の時間に出かけたりはしたけれど、大人になるとらわざわざロープウェイで山に登る気もわかなかった。でも、あーちゃんは東京に行く前、登ろうと言った。断る理由なんてなかった。

「ねえあーちゃん」

「なあに?」

「東京行くの寂しくないの?」

「寂しいよ。でも、そういうものだし」

 あーちゃんの横顔を照らしていた太陽は、いつのまにか海に沈んでいっていたらしい。気付けばいわゆるトワイライトタイムになっていた。街の灯りと海の青さが際立つ時間。

(綺麗だな……)

 それなのに、美しいこの街からあーちゃんはいなくなる。

 あちこちでスマホのカメラのシャッター音が響いている。でも、あーちゃんはポケットに手を入れて、焦げ茶の瞳に夜景を映していた。

 冷たい風があーちゃんの髪の毛も私の吐いた白い息もぜんぶ消し去っていく。でも私は忘れない。あーちゃんと過ごした日々も、トワイライトタイムの色合いも、あーちゃんという名前も全部。いっそ彼氏を憎めればよかったのに、あの男は爽やかで人当たりの良い好青年なのだから、やるせない。あーちゃんのお母さんが「絵里がこんな人と結婚できるなんて信じられない」と笑っていたくらいにいい人だ。ただ――。

(……そういうもの、か)

 彼女は納得している。私よりもずっと大人だ。その言葉に色んな思いを詰め込んで微笑むのだから。けれど私は諦められない。手を離したくない。だから、足掻くのだ。

「私はずっとあーちゃんって呼ぶからね」

「スズキさんになるのに?」

「そう。あーちゃんだよ。ずっと。おばあちゃんになっても」

「おばあちゃんなら、おばあちゃんってニックネームに変わっちゃうかもしれないよ?」

「いいの。あーちゃんって呼ぶの!」

 

 おとなしいけどちょっと頑固な、私の大切な幼馴染。函館から東京に行く友達。綺麗な景色を一緒に見た親友。私にとってあーちゃんはそういう子。

「遊びに来てね」

「六花亭のやつ山程持ってくよ」

 食べきれないくらいお願いね。あーちゃんは嬉しそうに笑った。