「いつになったら、死後の世界に行けるのかしら?」
すでに百万回は聞いたであろう文句を聞き流していると、彼女は頬を膨らませて私の腕を引っ張ってきた。
「ねぇってば!」
「そんなこと私にわかるはずがないでしょう」
「そもそも私たちは自分が何者であるかも忘れちゃったし、なんでこんなところに縛り付けられているのかも忘れちゃった存在だものねー」
私が姦しい女を振り払うと、暢気な女が割って入ってきた。
この会話も五十万回はしただろう。
「良いのか悪いのかたくさん人が来てくれるから、なんとなーく想像はできるけどねー」
追い詰められて入水して自害した二人の姫君か、あるいは恋人を殺されて後を追ったアイヌの美女か。
ここ数十年の間、駒ヶ岳の裾野に広がる湖の中で、私たちは観光客の言葉に耳を傾けながら、己の正体を推理してきた。
「ということで、今日の議題は私たちが何故この湖から離れられないのか! そしてどうしてここには’恋人’も’お父様や叔父様’はいないのか、ということです」
「恋人は自殺ではなく他殺だからよねー」
「お父様や叔父様はアイヌの女性を騙して人身御供にして相当恨まれているから……」
姦しい女は張り切るが、暢気と私はお決まりの文句を即座に返し、議論を打ち切った。
議論はたいして深まることもなく、繰り返されるばかりだ。
「……せめてもう少し自由に動けたらわかることもあるかもしれないのに」
姦しい女がひっそりとため息をついたそのとき、頭上で大きな音がすると同時に、波紋が広がってきた。
この音だけは絶対に忘れることがない。
入水した音だ。
私たち三人は状況を確認するため、緩やかに浮上していく。するともがき苦しみじわじわと沈んでくる女と目が合った。
女は悲鳴を上げようと口を開き――結果、大量の水を飲み込む羽目となり、意識を失った。そして続けざまに男も湖に飛び込んできた。どうやら女を追いかけてきたらしかった。必死に女を助けようとする男を見た瞬間。
「私もそうすればよかった……」
そう言って姦しい女は、溺れた女の体に吸い込まれていった。
すぐに女も男も救出されて陸に戻っていったが、残されたのは暢気と私二人だけ。
「憑りついちゃったみたいだねー」
「うん。……でも私、あの子の正体わかったかも」
「本当?」
暢気な女は目を輝かせる。
「たぶんあの子自身もわかったんじゃないかな」
「ってことは……」
「うん。私が誰かも思い出した。ここに居る理由も」
女はじっと私の言葉の続きを待った。
「私たちは浄土になんて、行きたくなかっただけなのよ。あの子たちがいると思っていたから。……でも、あの子たちは浄土にはいない。死後の世界にいる」
「あの子?」
「違うよ。あの子たち」
私が女の間違いを指摘すると、ようやく私が言わんとしていることが理解できたらしい。
女はホッと胸をなでおろした。
「ああ、そっか。そういうことね……」
「どうする? たぶんもう逝けるよ」
「あの子が無事に逝けるまでは待ってみない?」
「うん。そうだね」
それからしばらくの間、姦しい女が戻ってくるかどうか待っていたが、いつまで経っても彼女が湖に戻ってくることはなかった。