「私に触れないでくださいませ」

 ――死の縁から舞い戻った妻は、いつもと何一つ変わらない姿形をしながら、まったくの別人の物言いをした。

 妻とは小学校からの幼馴染だ。

 家族とも言える近すぎる距離感で育ち、男女として意識するまでずいぶんと時間が掛かったが、友人として、家族として、異性として、一個人として……どの面の彼女も好きだと自覚した瞬間、すべてを吹っ飛ばしてプロポーズしてしまっていた。

 最初は戸惑っていた彼女も、改めて俺と向き合った末に、同じ感情を抱いてくれたらしく、結婚を承諾してくれた。

 そして俺たちが選んだ新婚旅行先は北海道。函館を中心に一週間、北の大地を満喫するプラン。

 二日目の今日は駒ヶ岳の麓に広がる大沼国定公園にやってきた。

 美しい山々と湖を遊覧船で見て回る。

 もう見つかることはないだろうと思っていた新たな一面をいくつも見せてくれる彼女を愛おしく思っていた矢先、彼女は足を滑らせて、湖に落ちてしまった。

 すぐに飛び込み救助したが、目覚めた彼女は――

「あの……もしかして……その、俺が誰か、わからない……とか?」

「……はい」

 あまりの衝撃に、目の前が真っ白になった。

 

「……でも、あなたも私が誰かわからないでしょう?」

「いや……俺は、えっと、あなたのことを、良く知って……」

「この体の持ち主じゃなくて、”私のこと”です」

「え?」

 脳が追い付かない速度で、彼女の身体の中にいるナニカは話を続ける。

「もし私の正体を見抜くことができれば、この体、返して差し上げます」

 そう言って、ナニカは二つの伝承を語り始めた。

 一つ、昔荒れた海を鎮めるため、十名ほどのアイヌの娘を騙して船に乗せ、矢越岬にさしかかったところで、生きたまま海へ沈めた。これを知ったアイヌの人々は大いに怒り、松前の領主・相原季胤あいはらすえたねの館を襲撃。追い詰められた領主は娘ともどもこの湖に入水して命を絶った。

 二つ、昔、駒ケ岳の麓に昔アイヌ集落があり、美しい娘が暮らしていた。湖の村岸の集落には弓の名手の若者が居た。二人は恋を語る仲になったが嫉妬した男たちの罠にかかり、若者は湖に落ちて死んでしまった。残された娘はすぐに恋人の後を追って身を投げ、大沼に漂い咲く水藻の花となった。

「教えて差し上げるのは、ここまでです」

 ゆったりとした美しい語り口のお陰か、次第に俺は冷静さを取り戻していく。じっくりとナニカの言葉を反芻した後に、俺は口を開いた。

「質問してもいいでしょうか」

「……一つだけなら」

 俺は小さなチャンスを活かすべく、慎重に口を開いた。

「あなたは、何故妻の体を乗っ取ったんですか」

「……私も助けたかったから」

 待った末に紡がれた言葉は、想像よりもずっと温かい音に包まれていた。

「助けてくださって、ありがとうございます」

 お礼を告げると、ナニカは寂し気に目を伏せた。

 俺に触れられることを嫌がったのに、彼女を助けたかったというナニカ。

 伝承はある一面の断片を切り取ったものでしかなく、とても正体を推測できるような状況ではない。

 けれど俺は、諦めるわけにはいかなかった。

「あなたは……」

 俺は、恐る恐るナニカの名前を呼んでみる。

「…………」

 ナニカは何も言わずにゆっくりと瞼を閉じた。俺は急かすことはせずに、ただじっと彼女を見つめ続ける。

「違います」

 刹那、絶望に打ちのめされた。 

「っていうか、何言ってるのよ?」

 不満げな声。忘れもしない聞きなれたもの。

 俺は思わず彼女を力いっぱい抱きしめた。

「ちょっと!? だからなんなのよ!」

「何でもない。無事でよかった」

 ナニカの語った理由が本当だったのか、俺の答えが本当に正解だったのか、真実はわからない。

 けれど腕の中の彼女は間違いなくいつもの妻で……それだけで俺は十分だった。