「雨なので、今日は船を出せなくなりました」
眩しい日差しを背に受けながら、白髪交じりの船主は首を振った。
「海の方は降ってるんですか?」
いつか青の洞窟を見てみたい。そんな私の願いを叶えるため、彼氏が計画してくれた旅行での出来事だった。北海道には、いわゆる「青の洞窟」と呼ばれる箇所がいくつもあるが、今回の目的地は、中でも秘境と名高い矢越海岸沿いの洞窟。
周囲――大学生と思しき男性のグループと、同世代のカップル――からも落胆の声が漏れ聞こえてくる。
どうしても諦めきれずに私が尋ねると船主は皺の刻まれた眉間に、さらに深い影を滲ませた。
「そういうわけでは……ただ、ここ数日よくない荒れ方が続いていたので念のために」
「今降ってるわけじゃないんですか? じゃあ、行けますよね? 天気予報でも一週間は晴れるって言ってたし」
男子大学生グループの中で一番体格のいい青年が、明るく話しかける。
「お天気が続くのが問題なんで」
「はぁ?」
「……あのあたりにはちょっとした伝説がございまして。大荒れの後に快晴が続くと、海から女の声が聞こえてくるんです」
「なんだ、オカルトか。そんなもんいいから、さっさと船を出してくれよ。こっちは金払ってるんだからさ」
青年は鼻で笑うと、船主の肩に私の太ももほどありそうな逞しい腕を絡ませた。
「……絶対に返事をしないでください。それさえ守ってくれるなら」
結局、船は予定時間を四十五分ほど遅れて、出港することが決まった。
二人がキャンセルをしたため、船に乗ったのは八人。
せっかくの旅行ということもあって、私たちは船に乗ることを決めたが、船が動き始めてからもしばらくは船主の言葉が引っかかって素直に楽しむことができなかった。
けれど雄大な大自然を前に、小さな不安など、あっという間に吞み込まれていった。
目的は青の洞窟であったが、小型船から臨む青く広がる大海原も、巨大な北海道を縁取る海岸線も想像をはるかに超えた美しさに溢れていた。
「……連れてきてくれてありがとう」
思わず私がつぶやくと、彼は私を抱き寄せ、はにかむように笑った。その笑顔がまた、目の前の景色を特別なものへと変えてくれる。
しかし、しばらくすると――どこからか、か細い声が聞こえてきた。さざ波にかき消されそうなほど小さな音だったというのに、誰一人として聞き洩らすことはなく、乗船客全員がぎくりと動きを止めた。
「……返事をしなきゃいいんだろ」
青年は言い聞かすように大声で一人ごちたが、彼の声などかき消すほど、海の声はどんどん大きくなっていく。
「嘘吐き」
「許さない」
「お前たちも道連れにしてやる」
恨みのこもった恐ろしい声が、荒波のように押し寄せてくる。
「……一体何があったんだ!」
耐えきれなくなった青年が悲鳴交じりに怒鳴る。
「人身御供の話、知りませんか」
静かに女が応えた。曰く、それは1500年頃のこと。荒れた海を鎮めるため、十名ほどのアイヌの娘を騙して船に乗せ、矢越岬にさしかかったところで、生きたまま海へ沈めた。
これを知ったアイヌの人々は大いに怒り、松前の領主・相原季胤の館を襲撃。逃げきれないと悟った領主は娘ともども入水して命を絶ち、一族は滅亡することとなった。
「以来、雨が続いた後の晴れ間には私たちの声が聞こえると言われてるんです」
「んだよそれ、そんな大昔のこと俺らに関係ないだろ…!」
狭い船内に怒号が響く。
「……じゃあ戻りますか?」
「今更戻れるかよ」
青年がわめく中、彼は優しく私に耳打ちした。
「……どうする?」
緊張しながらも必死に平静を保とうとする彼の声を聞いて、少しだけ冷静さを取り戻す。そして――
「あのさ、その前に聞きたいことがあるんだけど」
「何?」
「さっきあの怖い人と話してたのってさ……誰?」
その後、船は引き返すこととなり――船主と私たちは、無事に船を降りることができた。