「あった、ホッケだよ」

 そう言って、釣りの合間につまむように持ってきた、スティック状のホッケの燻製を一本出してあげた。

「ホッケ!?」

 人魚さんは燻製に鼻を近づけ、ひくひくさせる。動物的な愛らしい仕草に思わず頬が緩む。

「ホッケ、違う匂い……」

「あー……燻製は木の香りをつけるからね」

 どうやらお気に召さなかったらしい。どんどん人魚さんの表情は難しいものとなっていった。

「いらない?」

「食べる!」

 怪しく見えても空腹には勝てないらしい。言うなり、人魚さんはホッケの燻製に勢いよく噛り付いた。

「…………」

「よく噛んで。噛めば噛むほど旨味が広がってくるんだ」

「…………」

 しばらく咀嚼を重ねても、人魚さんは何の返事もしてくれない。不安になって感想を尋ねようとした口を開いたそのとき、人魚さんは燻製の入った袋に顔を突っ込んだ。

「おい!!」

 すぐさま袋から引き離すが、時すでに遅し。残る燻製はすべて人魚さんの口の中。……いや、正確に言うと口の中に収まりきらず何本も飛び出している。

「もごもごもご」

「俺のつまみが……」

 釣りをしながら、燻製をかじって、自分の時間を満喫するはずだったのに。

 俺はがっくりと項垂れる。

「ケラアン~!(美味しい~!)」

 人魚さんはポッコリと膨らんだお腹を見せつける様に、その場にゴロンと寝転がってしまった。

「おいトド! 早く帰れ。俺の貴重な陸の休日をこれ以上邪魔するな!」

「アヨ!(痛い!)」

 軽く小突くと人魚さんは大げさに痛がる。しかしその割にはまるっこい体は微動だにしない。

 今度こそ蹴り転がして海に落としてやる。

 怒りに燃えて俺が構えると――

「あうう、ごめんなさい! 一宿一飯の恩、返す! 必ず!」

 人魚さんは慌てて起き上がり、謝罪をした。

「……あんたに何ができるんだよ」

「私、海の天気、わかる」

「…天気?」

「海の中も、わかる」

 たどたどしいながらも、人魚さんは必死にできることを連ねていった。

「魚、いる、いない、多い。ここ危ない、危なくない。私、全部わかる。カイザワ、魚、とるの、簡単! 海、安全になる!」

「……そりゃ…ありがたいっちゃありがたいが……」

 正直なところ、人魚さんに教えてもらったところで、新米漁師の俺の意見なんて聞いてもらえるのかどうかわからない。

「恩返す、絶対!」

 人魚さんは目に涙をいっぱい溜めて、俺の足に縋りついてきた。……ったく、本当にズルいよな。

「まぁ。そんなに言うなら、手伝ってもらうよ」

「あうあう! 任せて!」

「期待せずにいるよ。……とりあえず漁は今日行かないし、今はいいんだけど」

 暗に帰れと圧をかけてみるが、人魚さんはまったく意に介していない。

「だから今日は帰っ――」

「恩返すまで帰れないよ」

「は?」

「『一宿一飯の恩』返す。決めた。……でもまだ泊めてもらってないよ?」

「はあ!?」

「おい、それはつまり……」

「恩返したいから泊めて」

「なんだそりゃ!!」

「じゃあ恩返し終わるまで泊めて!」

「待て待て! それじゃあ、永遠に恩を返しきれなくなるだろ」

「ありがとうございます。感謝します」

「おい!!」

 どれほど抵抗しようとも、人魚さんはあの手この手で俺にまとわりついてくる。

 いっそ、好事家に売ってやろうとも思ったが、すぐに察した人魚さんは「売ったら呪ってやる」と可愛い笑顔を浮かべて宣った。

 しかもどうやら本当に人魚さんが人間を憑り殺すという伝承があるらしく……簡単に振り払うわけにはいかないらしかった。

 こうして、わが家に押しかけ人魚(大食らい)が住むことになったのだった。