「今日先輩から教えてもらったんだけど、北海道には梅雨がないんだって」

 遠距離恋愛を始めて二ヶ月。
 会社の人事異動で北海道へと旅立った彼からの久しぶりの電話は、そんな話題から始まっ
た。

「それは良いなぁー」

 梅雨を絶賛体験中の身としては羨ましい限りだ。今日も今日とて窓を叩いている雨の音に
ため息が漏れる。

 洗濯物は乾かない。湿気で髪は膨らむ。服や靴は濡れる。頭痛はする。
 嫌なことばかりが挙がる雨に対して、私は良いイメージを持っていない。梅雨の時期なんて、外に出たくないと思うほどだ。

「今年の 6 月は快適に過ごせちゃうな―」
「何よ、マウント取っちゃって」
「あ、バレた?」
「怒った。もう口利かない」
「ごめんごめん。じゃあ、良いこと教えてあげる」

 わざとムッとした声を出すと、全く悪びれていない様子で明るい声が返ってきた。この声はいたずらをしたり、からかったりするときの声だ。

「ほぉ、言ってみなさい」

 私もあえて偉そうに返してみる。電話越しから小さな笑い声が聞こえてきて、少ししてからこほんと咳払いが届いた。

「……北海道にはね、ゴキブリは滅多に出ないらしいよ」
「えー! 何それ天国じゃん!」

 茶番用の言葉ではなく、素で感想が漏れる。
 名前すら出したくない生物が一人暮らしの部屋に出た際、当時近所に住んでいた彼を呼び
出して、退治を依頼したのは記憶に新しい。

 まだ仲間がいるかもしれないと、そこから数日間は彼の部屋で寝泊まりをしたほどだ。この夏は一人で向き合わなければいけないと思うと、電話越しの距離が恨めしい。

「あとね、新鮮な食材たっぷりの海鮮丼が安く堪能できる」
「え?」
「それから自然豊かで絶景が多い」
「う、うん」
「乳製品の旨さはマジで神」
「ちょ、ちょっと待って」

 相槌すら入れにくい間で繰り広げられる怒涛の北海道推しに、圧倒されながら無理に割っ
て入る。彼は素直に大人しく従って、静かになった。

「北海道が良いところなのは、十分わかってるよ」

 北海道は私が死ぬまでに絶対に行きたいリストに、彼が北海道に行く前から入れている。とっくに北海道に魅せられているといっても過言ではない。

「そう、北海道は本当に良いところなんだ」

 柔らかい声色が耳元をくすぐる。優しい声にきゅっと胸が痛くなる。

「だから、さ。遊びに来ない? ……沙織に会えないのそろそろ限界」
「――っ!  その流れはズルい!」

 恥ずかしさと嬉しさから、ベッドに倒れ込む。
 窓が近くなったことで雨の音がより大きく聞こえるも、今は何だか心地よい音楽に聞こえ
てくる。

 浮かれていることを自覚しながら、ゆっくりと口を開く。

「今度遊びに行くね」
「うん」
「天気が良い日に美味しい海鮮丼食べて、景色のいいところに行って、帰りに乳製品いっぱ
い買って、ゴキちゃんがいない部屋で一緒に過ごそう」
「それは良いなー。天国じゃん」

 少し前のやり取りでの言葉に、お互いに声を上げて笑う。電話の前に感じていた寂しさは、もうすっかり薄れていた。

 北海道について二人で語り合う中、ベッドサイドに置いてある手帳に手を伸ばす。彼の話に相槌を打ちながら、北海道旅行への日程を私は真剣に検討し始めた。