道場に入る扉の前で、俺は鳴り止まない心臓を必死に抑えていた。
 この扉を開けると本気の父が待ち構えている。
 一度深く深呼吸して、これまでの事を思いを馳せる。

 俺の家は函館市で由緒正しく伝わる剣術道場だ。
 剣術と言っても居合専門。
 小さい頃から一瞬で決まる勝負に胸をときめかせていた俺が、その道を歩む選択をしたのは必然だった。
 幸運にも才に恵まれた俺は、努力を惜しまない性分もあり、メキメキと力をつけていった。
 高校生となった今では、もはやこの道場で練習相手となり得るのは父だけとなってしまった。
 そして、そんな父が先日俺に宣言して来たのだ。
 本気で立ち会うぞ、と。
 俺は喜びに打ち震えた。
 遂に父を越えるチャンスが訪れたのだ。

 よし、少し冷静さを取り戻せた様だ。
「守ちゃん、頑張って来てね」と優しく送り出してくれた母の想いにも答えなければならない。
 決心した俺は扉を開いた。
 視界に飛び込んで来たのは、がらんとした道場の真ん中で目を瞑って静かに正座している父の姿だけだった。
 膝元には愛用の木刀が一振り。俺がそろりと対面に座すと、突然父がカッと目を開き、立ち上がった。
「いざ尋常に!」
 父の発破に、俺も呼応した。
「勝負!」
 腰に木刀を構え、父の出方を伺う。
 一瞬でも集中を欠くとやられそうな気がする。
 こめかみからじわりと流れた汗が輪郭を伝い、顎先に到着した。
 それが重力に従い、一つの雫となった瞬間だった。
 少し姿勢を低くした父が、恐ろしいスピードで踏み込んで来た。
 不味い。
 すでに俺が踏み込めない位置まで来ている。
 コンマ以下の僅かな間に直感し、迎撃の体勢へと移行する。
 左腰に構えた木刀を父が水平に薙ぎ払う。
 ギリギリで体勢を整える事に成功した俺は、右手から迫り来る斬撃から逃げる様に父の左側に上半身を投げ出した。
 姿勢を前傾させると同時に左腰から放った木刀をそのまま振り抜く。
 ゴッ、という鈍い音が鳴った。
 時が止まった様に背中合わせの状態がしばらく続いたが、僅かな呻き声と床に座り込む際の音が道場に響いた。
 膝をついたのは父。
 そう認識した瞬間、俺はまるで地獄の淵から生還した様に息を吐き出した。
 勝った。
 遂に勝ったのだ。
 幼少からずっと憧れだった父を越えたのだ。
「ワハハハハ!見事だ守!俺の負けだ!」
 豪快に笑い出した父は俺の側に歩み寄ると、肩を抱いて健闘を称えてくれた。
「父さん、ありがとう。これで俺も1人前の剣士を名乗っていいかな?」
 俺がそう返すと喜色満面の父の表情が固まり、首を横に振った。
「え?どうして?」
「守、俺がなぜ師範代を名乗っているか分かるか?」
 そう、父はこの道場のトップでありながら、師範代という肩書で指導を行っていた。
 その事は知っていたが、父以上に強い剣士はこの道場にいなかったから気にもしなかった。
「分からない。教えてくれよ」
 俺がそう聞いた直後だった。
 道場の扉が軋んだ音を立てながらゆっくりと開いて行った。
 一体誰だとそちらに顔を向けると、道着に身を包み、俺達と同じ様に腰に木刀を携えた母の姿があった。
「か、母さん……?」
「あらあら守ちゃん。お父さんには勝ったみたいね。じゃあ次は私が見てあげましょうか」
 コロコロと笑いながらそう言う母の言葉に混乱している俺の背中を、父がバンッと叩いた。
「うちの師範だ。さあ、胸を貸してもらえ」
 その言葉を聞いた後の記憶はほとんど無い。
 ただ、剣の道は奥が深いなぁと、しみじみ感じたのだけはやけに鮮明だった。