一つ口をつけただけで自分の顔が綻んでいくのが分かる。
 間違いなく俺はこの瞬間の為に生きているのだ。
 独特で複雑な味をもつダージリンは、人によっては一番嫌いな紅茶に挙げられることもあるが、俺からしてみれば味覚がお子様なだけである。
 そのまま喉の奥へ流し込み、口内と鼻腔に残る余韻を楽しむ。幸せなひと時とはこの事を言うのだろう。視界一面を真っ白に奪われる季節は去り、窓の外ではうららかな陽気がこの小樽に降り注いでいる。
 俺は紅茶が好きだ。

 アールグレイから始まり、セイロン、アッサム、ジャワなんかも良い。
 だが、やはりダージリンが一番だ。それもこの店のダージリンでなければいけない。
 半年ほど前にこの喫茶店を偶然発見したことは幸運だった。適度な客入り、質素で落ち着いた雰囲気、年老いた少し不愛想で無口なマスター。だが、そのイメージとは裏腹に、彼が出す紅茶に俺は一目惚れをした。大学の講義が終わるとこの喫茶店に駆け込み、こうやって紅茶を楽しむのがいつの間にか俺の日課となっていた。

 そしてここに通う理由がもう一つ。
 俺は紅茶に落としていた目線を少しだけ上げた。窓際のテーブルに腰掛け、頬杖を突きながら外の様子を眺めている女性。どこか物憂げな瞳は可憐に瞬き、茶色く輝くロングストレートが傾げた首の分だけ揺れている。少し時間が経っているのだろうか。右手に持ったコーヒーからは湯気が出ていない。
 彼女はこの店の常連だ。そして俺はこの女性に惹かれている。
 つまり、俺が一目惚れをしたのは紅茶だけではなかったというわけだ。
 だが時が経つのはあっという間で、彼女を知ってからこの半年間、未だに話しかけることが出来ないでいる。紅茶と会話する事は叶わなくても、せめて彼女とは言葉を交わしてみたいのだが……何と話しかければいい?

 以前それとなく相談したところ、2つ上の姉は俺の胸に拳をドンと打ちつけた。
「きっかけなんて何でもいいわ!容姿を褒めたりして好きな気持ちを前面に押し出しなさい!とにかく押して押して押しまくるのよ!」と後押しを受けた。
 だが2つ下の妹は両手を上に広げ、やれやれとしていた。
「鼻息荒くした男に話しかけられたらキモいわ。天気の話でも飲み物の趣味でも、何でもいいからスマートにすることが大切よ」とアドバイスを受けた。

 俺は考えた。少し引っ込み思案なところがある俺が、姉の様に力強い拳を握れるだろうか?
 答えは否。妹よ、お前を信じる。そして今がその時だ。
 勇気を出せ、俺。
「あ、あのっ……」
「あっ、ここよ!待ってて、今お会計するから」
 俺が言葉を発した瞬間、誰かの入店を報せるベルと、憧れの女性の弾んだ声が耳に届いた。入り口には軽く手を挙げて微笑む男性。手早くコーヒー代の支払いを済ませた彼女は、軽い足取りで男性と店を出てしまった。
 そして、窓の外からは、腕を組んで仲睦まじくどこかへと向かう2人の姿が飛び込んで来た。
 俺は冷たくなった紅茶を眺めていた。間違いなくこれまでの人生で一番落ち込んだ瞬間だった。ここが崖であれば、何の躊躇もなく前へ倒れられるくらいに。
 しばらくそうしていると、テーブルに何かが差し出された事に気付いた。それはゆっくりと湯気を吐くコーヒーだった。

 顔を見上げると、普段の不愛想はどこへいったのか、こちらを見て優しく微笑むマスターが傍で佇んでいた。
 俺の目には自然と涙が滲んでいた。マスターの純粋な優しさが心に沁みる。
 ありがとう、マスター。
 そして俺は再び口を開いた。
「すみません、コーヒー飲めないんです」