「食べるのを我慢しろと言われても……それができたら苦労しませんよ、先生」
僕はその患者の反応にため息を付いた。
——ああ、これを聞いたのは何回目だったっけ?

9月半ばとなる札幌の病院の外に出ると、僕の待ち人が立っていた
「黒田さんですよね? 俺です、鈴野です。出張の仕事は時間通り終わったみたいでなにより」
「医師の学会とはいえ、出席だけすればいいようなものですよ。今日はよろしくお願いします」
「まあ、俺はフリーランスのライターだけあって暇なときはとことん暇で、今はまさに暇で明日も暇なわけですし。むしろ友達に会えて嬉しいぐらいなんですよ」
『イメージした通りの気のいい友人』だったことで、僕は好感を覚える。
彼がいつもチャットサーバーにいたことで僕は知り合い、しばしば暇なときに話し相手になってもらっていたものだ。
彼はアイヌの血が少し入っているらしい。とは言ったもの、もう現代文明に慣れてしまって、アイヌ民族という自覚はないそうだが。
今日は僕が出張で札幌に着たことで、札幌在住の彼に初対面も兼ねて街の案内を頼んだわけだが……彼はとても乗り気そうだった。
そう、この札幌に絶対の自信があるかのように。

彼が連れてきてくれたのは大衆向けを少し上品にしたようなイタリアンだった。
この店を提案されたときは、あえて札幌でイタリアンじゃなくてもいい、海鮮系の和食こそ食べるべきじゃないかと、少し不満があったものだが。
「じゃあ、俺が注文します。もちろん割り勘ですから大丈夫ですよ」
僕は少し不安ながらも、自信たっぷりな彼に苦笑しながらうなずいた。

「鈴野様、お待たせしました!」
僕は料理を目の前に置かれただけで歓声を上げてしまった。
宅配ピザのLサイズより大きく、もっちりと焼き上がったナポリピザには、北海道産のアスパラと生ハムに半熟卵が乗っていた。
クロゾイという大きな白身魚はイカやアサリを始めとする大量の具材とともにトマトスープで煮られている。
スモークサーモンと幅広の麺を使ったパスタも出されたが、この後にエスプレッソとデザートまで付くという。
「ね? 見た目だけで驚くだろうってネットで話したのも納得だろ? 早く食べようじゃないか」
僕は、半ば呆然として料理を口にするが、どれもが今までにどんな高級店で食べたことがないほどの美味しさだ。
料理の腕以上に、素材が厳選されきっている。
それでいて、二人でやっと食べ切れる量だ。僕はもう頭の中で万札が何枚も羽が生えて飛んだ。
「すごいだろ? あ、でも料金は二人分で6000円しないぐらいだよ」
僕はそこで料理を吹き出しそうになった。
「げほっ……1人6000円の間違いじゃないのか? それでも僕の地元では安すぎるぐらいなのに……普通美味しい料理って、すごく高くて、量も少ないものだろ?」
「え? それじゃ満足できないだろ? 満腹にならなくちゃ、美味しいものの意味がないじゃないか。それが北海道なんだ」
「でも……これだけのものを提供するなら、観光客を誘致して価格を高めに設定して儲けられそうなものだろ?」
彼は考え気味に軽く唸り、語り始めた。
「北海道には美味しい食材が溢れるほどにあるけどさ、大自然から手に入れたものを、金持ちだけが独占するのは恥ずかしいことだとアイヌの端くれとしては感じるかな?」
今までに聞いたことのない価値観に僕は言葉を失う。
「黒田さんも医者だろ? 自分に大金を積んでくれる患者だけを選んで治療したいと思うかい?」
「それは……流石にないかな。誰にとっても大事な命なわけだし」
「それと同じような理由を、北海道の人は食に感じるものなのさ」
笑顔でそう語る彼を見て、僕は悟った。
本当に暴飲暴食を直すには、最高に美味しい食を飽きるほど満足するまで楽しむ必要があるのだと。
——患者に我慢を強いるのではなく、人生を楽しみながら健康になる道がここにはある……
僕もまた、北海道の大自然に尊敬を覚えていた。