男がふらつきながら歩いていた。
男の身体には、所々に刀傷があり鎧には何本もの矢が刺さっていた。
血が流れて雪で白くなっていた地面を、点々と赤く染めている。
「俺は……どこまで来たのだろうか……」
男は一人歩いていた。
侍であろうとわかるが、付けている鎧も直垂もボロボロだった。鎧も、受けた矢や刀傷で防御の体を成していない。
彼は落ち武者だった。
男は、幕府の命で蝦夷代官の元に仕えていた。それが仕えてから数日もしないうちに夜襲に合ってしまったのだ。
何故にこんな果ての地で……。無念の気持ちがよぎる。
男が歩く先に海が見えた。冬の海。
見えてきた海は天気が荒れていて、舟なんか出せるようなものではない。
むしろ、遠くに見える岬は切り立った崖になっており、降りないと海に出られそうも無かった。
男は、死に場所を求めていた。
今から館の方に戻っても奴らによって殺されてしまうがオチだ。太刀は刃こぼれして使えそうもない。だったら短刀があるから自分で好きな場所で、と思っていた。
ふと見ると、一匹の獣が岬に向かって歩いていた。
痩せこけた狼。所々傷を負ってふらつきながら歩いていた。
疲れた表情。老いた狼。
こいつも縄張りや餌を求めて、狼や他の動物と争ったのだろうか。
死に場所を求めているのか?
男は腹が減っていた。
だったらこの老いた狼を捕まえて食べてみようか。
懐に隠していた短刀を取り出そうとして……辞めた。
これから死ぬものが、生きるために食べるだと? 滑稽ではないか!
男は狼の後を、岬に出る一本道を伝ってふらつきながら歩いていた。
狼が男の方を振り向いた。
疲れている獣の顔は、男を見つめていた。瞳が一瞬鈍く光る。
でも、少しの間が流れたのち、男の方を気にせず前を向いて、ひたすら歩くようになった。
貴様になど興味などない。
男は、狼がなんとなくそう答えたような気がした。
「おぬし、この俺を馬鹿にしているのか? 畜生の分際で」
懐の短刀を取り出し、狼に向かって振ろうとした。
でも出来なかった。
大きくふらついてしまい倒れてしまったからだ。それでも短刀は手放そうとはしなかった。雪と土が顔を汚す。
太刀が使えない以上、短刀を捨てるわけにいくものか。
これは俺にとって残された命そのものだ。
男は一瞬、前方から視線を感じた。
見ると、先ほどの狼がまたも男の方を見ていたのだ。
「なんだこいつ……? 俺の方を何回も見て」
狼はまた前を向いて、岬の方に向かって歩き出した。
ついてこい、と言ってるのか?
訳が分からないまま、男は狼に付いて岬に向かって歩いて行った。
岬に降る雪が更に強くなった。
でも、狼も男もその足を止めようとしなかった。
やがて、岬の端に出た。
狼はまたも、男の方を向いた。気になっていた男は狼に問う。
「お前、何を見せたいのだ? 」
狼は、男の問いに答えるかのように、前を向いて────、
うおおおおぉぉぉぅぅぅ……っ!
うおおおおぉぉぉぅぅぅ……っ!
海に向かって遠吠えを上げた。
「お前、泣いているのか? 」
男は思わず狼に問うた。
それは、この私に向かって泣いたのです。そうであろう?
突如、男の頭の中に声が響いた。聞いた事がある声。
狼にも声が聞こえたようだった。遠吠えを止めていた。
「誰だ⁉ 」
男は、反射的に身構える。でも声の主が分かった途端……。
一瞬、構えが緩んだ。
「お前、どうしてここに? 死んだのではなかったか? 」
男がいる岬の向かい、海面にそそり立つ巨大な岩に立つ人影。
白い小袖を着た女性の姿だった。
男と対になるような姿で、幸せそうな笑みを見せた。
あなた、お久しぶりです。お会いしたかった……!
俺もだ……会いたかった。
男は、そのまま岬から空に足を踏み出した。
踏み出したその先に、男を待っていたものは────、
虚無だった。
再び狼は、雪が降る中で、張り裂けそうな遠吠えを上げていた。
目の前に立つ岩には、もう誰もいない。
まるで目の前に恋人がいるかのように──────。