静謐せいひつな朝の潮風が胸を満たす。
記憶を辿っていくと、その1ページ目にはこの景色があり、もっとも多く描き記された景色だ。晴れの日も雨の日も喜ばしい日も悲しい日も、表情を変えながらも海はいつも共にあった。

朝日をきらきらと反射してどこまでも遠くまで広がっている函館から見た海は、これから始まる新しい一日を祝福しているかのように輝いている。・・・・・・いや、あるいは、無謀な好奇心に踊らされる冒険者を喰らおうと誘っている、研ぎ澄まされた瞳の輝きなのかもしれない。

そんな函館の『海』というものが、好きだ、と俺は思う。
顔色が祝福にも誘惑にも見えるのは、自分の経験や思い出があるからだ。
突如崩れた天候、荒れ狂う雨と高波、水底へと引き込まんとする海を、かつて何度も経験した。
長き競合いの果てに、かつて見たこともないような巨大な獲物、その栄誉を海から受け取ることもあった。

俺の持論としては、海の上にいるとき、誰もが孤独にある。もちろん、複数人で船に乗って行う漁もあるし、チーム戦であることは多い。が、なんと言うか、心のあり方は孤独なのだ。
海を愛することは、すなわち孤独と戦い、愛することでもある。

そんなこと、ガラにもねえかな、と気恥ずかしく思ってしまった。
自他共に認めるような大雑把なヤツが、なんだか感傷的な気分に浸ってるじゃないかと省みた。そういう自分も友人も知らないような側面を出せる場所も必要なのかもしれないな、と冷たい空気を大きく吸い込んだ。

きっと、自分には『海』という場所があるからこそ、自分の望むように振舞えるのだろう。
側にある存在、だと思っていたが、むしろ海は自分の一部なのかもしれない。まるで地球のことのようで、我ながらなかなかスケールの大きな考え方じゃないか、と楽しくなってきた。

「さて、と!」
まだ朝は少々肌寒い季節だ。習慣以上に、俺にとっては呼吸と同様と言えるほど活動の一部となった朝のひとときを切り上げ、食事の用意を始めようと踵を返す。
やはり、朝はしっかりと食べなければ力が出ない。魚達にも負けてしまう。
港には、早起きの鳥達や船が動き始める、そわそわした雰囲気が漂ってきた。海も待ち構えるようにざわめいている。

大きなあくびをひとつ、軽く身体を伸ばしつつ動きを確かめて、今日出会えるだろう何かに思いを馳せた。