家族と大喧嘩をして飛び出した俺は、あてもなく街をうろついていた。
喧嘩のきっかけは、10年近く勤めた会社が倒産して、失業した俺を家族が責めたと言うだけ。
「この歳で再就職しようが、無職のまま家にいようがなぁ……もう、いっか」
俺はATMで一日の引き出し限度額の50万円を自分の口座から下ろし、何をするかを考えた。
死刑囚も、最後は自分の希望するメニューを食べてから死んだという。実にいい考えだ。
ならば、美食の都、北海道へ向かうのがベストではないか。
俺は着の身着のままで、空港へと向かうのだった……
俺はその日のうちに札幌市中央区へと降り立っていた。
格安航空会社を使った所、1万円もしない札幌へとたどり着けてしまい拍子抜けしたが……
美味しいものを腹いっぱい食べて、夜の街で散財してやろう。後のことなど知ったことか。
俺は、腹いっぱい食べるのが極めて難しいものとして真っ先にカニを考えた。
そして、二条市場で生簀のあるカニ料理店へと足を運んでいく……
「最高のカニがまるごと一匹欲しい。金に糸目はつけない!」
俺はドラマめいたセリフを吐きつつ、財布の中身を全て店主に叩きつけた。
「承知しました。ここでしか食べられない最高のカニ料理をご提供しましょう」
俺が席に座って待つと……甲羅が手のひらほどの大きさがある、トゲだらけのカニが茹でたての状態で運ばれてきた。恐らくタラバガニだろう。
俺は切れ目が入れられた足を手に取り、フォークで身をすくい、口に運んでいく……
「これは、うまい……!」
ズワイガニとは全く違う身の味の濃さ。殻からこぼれ出る、脂が溶けたような茹で汁の旨味が俺の五臓六腑に染み渡っていく。
いくら食べても尽きないほどの巨大さがあるだけに、俺はすぐ腹が一杯になり、手が止まってしまった。
「まだ料理はございますよ。こちらをどうぞ」
店主はエゾバフンウニや、大盛りのイクラ丼を俺の前に並べていく。
俺はすべての料理に手を付けたが、とても食べきれず大量に残してしまった。
「堪能したな。これで悔いはない、か……」
「満足いただけたようですね。ではお代を受け取ります」
店主は一枚だけ札を取って、残りを全て突き返してきた。
「後はお釣りです。お受取りください」
「何言ってるんだ!? あの大きさのタラバガニなら5万円はするんじゃないのか!?」
俺は自分が貧乏人だと見下された気がして腹が立ち、店主に抗議した。
「あれはアブラガニです。タラバガニよりずっと安いものですよ。昔はタラバガニと偽って販売され、問題になりましたが」
「なんでそんな安物を俺に食わせたんだ? おい?」
「アブラガニは味が落ちやすく、流通には向きません。しかし、茹でたてならば味は花咲ガニやタラバガニよりも上回るのです。北海道でしか食べられない究極の味、確かにお出ししました」
毅然と語る店主に俺は呆然とする。1万円で得られる満足と引き換えに俺は命を断とうとしていたという現実を思い知らされて。
「そんな着の身着のままで北海道に来たお客様に、何があったかまでは聞こうとは思いません。しかしお客様がどのような人間であろうと、北海道だけで輝くアブラガニのように、どこかで一番必要としている人や家族がいるはずなのでは?」
俺が電話を手に店を出ようとすると、店主は俺の肩を優しく叩いて送り出してくれた。
「宮子、俺だ。カッとなったとはいえ本当に悪かった。明日にはちゃんと家に帰る。約束だ」
『私も言い過ぎたわ……会社の倒産は別にあなたの責任じゃないのに……』
「すぐに就職できるとは限らないから、せせこましい生活になるけどさ? 俺も1年に……いや、2年に一度、北海道に行ければもう何も欲しくないよ。だから少し我慢してくれないか?」
俺はアブラガニでいいんだ。世間の評価は低かろうと、俺だけを求めてくれる人がいる。
そしていつか家族にもアブラガニを食べさせてやろう。それは時間があれば必ずできることのはずだ。
俺はその小さな目標のために頑張れる自分を今は誇りに思うのだった。
