待ちきれず、長旅をした。カンガルーが欠伸をしたような呑気な太陽の下を、羽田空港から、東京の複雑な電車を乗り継いで、ようやく井の頭公園に着いた。道中で手をつけた文庫本があと十ページぐらいだったので、ベンチに腰を掛けて読み切ってしまうつもりだった。
「落ちてるよ」
 爽やかな風がカーテンを揺らすような声だった。若い、といっても僕よりは五つか四つぐらい年上の女性が横に立っている。手には、文庫本に挟まっていたはずの栞が握られている。僕はすみませんと言って受け取った。
「暑そうな恰好。まるで北海道から来たみたい」と彼女は言う。
「まるで北海道から来たんです」と僕は言った。
「へえ」と女性は今日の空のように言った。「どうしてわざわざ?」
僕は少し考えてから、けれどそれ以外に言い表しようもなく、前方を指さして、「待ちきれなかったんです」とこたえる。
 女性は、まさか、と肩をすくめて、随分遠くにある桜に視線をやった。
 嘘じゃない。やはり僕は待ちきれず、長旅をしてしまったのだ。
「それなのに、桜を見ることもなく、本を読んでいる」
「あと四ページだったんです」
「邪魔だった?」
「いいえ」と言って、僕はずっと手の上で開きっぱなしだった文庫本をようやく閉じた。桜が散って人が死ぬような小説だった。寿命を待つ女の子。それを看取る主人公。残り四ページでのどんでん返しは期待できそうにないだろう。
「どうせ、後はもう死ぬだけだろうし」
 彼女は僕の文庫本をちらりと横目で見る。
「分からないじゃない。生きるかもしれない」
「そうだったら、嬉しいんでしょうね」と僕は肩をすくめた。
「ねえ、君のその、他人事みたいな喋り方、素敵だと思う。まるで愛されなかった子供みたい」
「まるで愛されなかった子供なんです」
 彼女は白いタオルを畳むように丁寧に笑ったのちに、何も言わずに去って行った。
 再び一人になったあと、もう本を読む気分でもなく、ようやく、僕は目当ての桜の木に向かって歩いた。よく晴れた空の下、何年も昔から鎮座する木。絵の具を垂らしたように淡く、けれど所々がにごった花びらが連綿と散らかっている。
 僕は地面に散らばっている花びらの、できるだけ綺麗な一枚を拾って、文庫本の間に挟んだ。

 ──君のその、他人事みたいな喋り方、素敵だと思う

 彼女はそう言ったが、けれど僕にとっては、実際に他人事だったのだと思う。
 北海道から東京。高校生の僕にとっては長旅だった。決心した昨日の昼間。慌ただしい病院の、静かな一室で妹は僕に言った。
「お父さんとお母さんね、毎日来てね、桜が咲くまでは頑張れ、って言うんだ。去年も同じことを言われた」
「うん」
「ヒマワリが咲くまで、スイカが食べられるまで、葉っぱが赤くなるまで、雪が降るまで。きっと終わらない」
「うん」
「お兄ちゃん、あのね、わたし疲れたんだ。もう待ってられない」
僕もだった。
 北海道では、まだ桜は一か月ほど咲かない。僕はその日のうちに、明日は休むと学校に連絡を入れた。あまり僕に関心を持たない両親はそのことにも気付かなかっただろう。そうして、去年の末にもらったクリスマスプレゼント代わりのお小遣いと、今年のお年玉を飛行機代にあて、東京と北海道を往復した。

 病室に戻ってきた僕を見て、ありがとう、ごめんね、と妹は言った。桜は残り四ページの本のなかで少し萎れていた。
それからちょうど一か月が経ち、北海道でもようやく桜が咲いた。遅咲きの桜を、僕と、父と、母の三人で見た。やはり、カンガルーの欠伸みたいによく晴れた太陽の下だった。
公園のベンチで三人並んで座っていると、ふと、母親が僕の手を握ってくれた。数年ぶりだった。