目的地まで500メートル。
「アキラ、引き返そう」
 とユウキは言った。

 大学を卒業して事務員として仕事を始めたのだが、正直気持ちは沈んでいた。
 俗に言う『五月病』というやつだ。
 こんな風に繰り返す日常が死ぬまで続くのだろうか……そんな風に思うだけで気が滅入ってくる。
 ロクに趣味らしい趣味も持たない自分にとって、休日も何をしたらいいのか分からない。
 喫茶店に行って好きな小説や漫画を読んで時間を潰すのも何か違う。
 旅行もいいかもしれないが、一人でどこかに行くのも何か虚しさを感じる――
 そんな愚痴に付き合ってくれた親友のユウキはハイキングへと誘ってくれた。
 趣味になればいいのだが。

 札幌市内から車で1時間のところに、登山道の入り口は開かれていた。
「駐車場、ガラガラだね」
「リフレッシュのために来たのに、人が多すぎても嫌でしょ?」
「ハハハッ、たしかに」
 声を出して笑ったのは二ヵ月ぶりだった。まったく、どうかしている。
 バカ話をしながら登山道に入って1分もしないうちに、国道を走る自動車の音が聞こえなくなった。

 鳥たちの声と木々の揺らめき。
 遠くから聞こえる川の流れ。
 地面を踏みしめる登山靴の足音。
 クマよけの鈴の音。
 木々を抜ける風。
 草の香り。
 心地よい疲労。
 肺いっぱいに深呼吸をすると満たされる、新緑の風。
 これでシラカバ花粉で鼻が詰まっていなければ、どんなによかったことだろう。

「来てよかった。目覚めた気持ちになれた」
 頂上に行く前に思わず口を突いた。
「ハハッ、誘ってよかっ――」
 ユウキの相槌が遮られた。
「アキラ、引き返そう」
「頂上まであと少しじゃん」
 私の反論にユウキはチョンチョンと自分の鼻を触った。
 花粉症の鼻から少しだけ外気を取り込む。
 生暖かな空気と同時に、異様な臭いが鼻を突いた。
 身体がゾクリとし、理由もなく血の気が引いた。
「戻ろっか」
「うん」
 それ以上の会話をせず、私たちは下山した。

 こうして、私は日常へと戻り、平和に過ごせることの大事さを噛みしめている。
 だが、平和を知るためにも、非日常に身を投じなければならない。

 ああ、週末が待ち遠しい。