淹れたてのコーヒーから立ち上る湯気が、眼鏡を曇らせた。職業柄、目を酷使してしまうので少しでもいたわってあげようとかけ始めたブルーライトカットのものだが、数年もかけていれば習慣化してきた。
そこが自宅の書斎であろうと、馴染みの喫茶店であろうと、趣向を変えて行ってみたファミレスであろうと、自分の世界に没頭させてくれるスイッチになったようだ。

本を読むという行為は、現実の世界から本の世界に入り込むことだ、と定義付けて私は物語を綴っている。2つの世界を行き来するためのスイッチは表紙を捲ることなのかもしれない。
現実の中でも、人は世界を行き来しているだろう。ペルソナというそれだ。誰だって相手によって自分を使い分けている。相手にとって好ましい『自分』の世界に入り込む。世俗とはそういうものだろう。

・・・・・・かつて、ノートパソコンで文字を書くようになる前は、どうやってスイッチを入れていたのだろうか。今となっては思い出せない。それほどに、ここ数年で身に付いた新しいルーティンは自分の身に染込んでいる。

そんなことも思い出せないのか、と若い子達には笑われてしまうだろうか、と可笑しくなった。
歳より若く見られてしまうことが多い分、少し老けてるような様子を見せるとここぞとばかり老人扱いしてくる、可愛い少年達。
もし笑われてしまったら、君達も些細なことなんかすぐに忘れられるようになるさ、と言ってやろう。

長く生きるということは、自分の記憶の容量を最適化していくことだと思う。若いうちは記憶の容量が有り余っているせいで、些細な辛いことや悲しいことを不必要に留めてしまうのだ。
忘れたくない記憶が増えてくると、そんなくだらないものに割く空きなどはない。必要な記憶だけ抱いていけばいいのではないか。
相手にとって都合のいい自分など余計なことばかり考えずに、もっと楽しい記憶で満たしていれたら幸せなのかもしれない。

・・・・・・とは言っても、ちょっと忘れっぽくなってきたかもしれないな。歳だとは言わせないが。
ふと窓の外に目をやると一面の霧。釧路の霧はロンドンのそれと似ているという。目の端に移ったマグカップに今さら気付き、ぬるくなってしまったコーヒーを飲む。